猫は猫と戦う。
それは、縄張り争いや、メスの奪い合いだったりする。
そもそも猫は犬と違い自活する力がある。
生きていく知恵を持つ。
うちの元野良猫 茶トラのルーちゃんは、夏場、昆虫を食べる。
短いながら一緒に生きたパパかママが教えたにちがいない。
一方、幼少の折、死にかけていた黒猫クーのほうは
親とともに生存した期間が短いせいか、育てた人間に近く変なものは食わない。高級カリカリが主食で、焼き海苔など人間の好物も好きだ。
人間に同化しているのだ。
というか、同化せざるをえない育てかたをした。
かみさんは、右肩の上に乗せて育て、昼となく夜となく抱きしめ、ミルクを与え、離乳食を与え、好物を探し回って与え、夜はマタタビを1本つけてやって、旦那も嫉妬する可愛がりようだった。
哲学的に言えば、クーは人間とともに生きてきたのであるが、ルーのほうは人間のそばに生きているのであって、ともに生きているのではない。
だから、猫には人間とともに生きる猫たちと、そばで生きる猫たちの二種類いる、ということになる。
さて、不思議なのは、猫は、ともに生きる人間にも、決して媚びることはないということだ。
媚びないどころか、人間を操る能力に長けている。
映画で、長靴をはいた猫が、うるうるの瞳をしてお願いのポーズを決めるシーンがあったが、あれはその辺をうまく描いていた。
猫は、人間のハートの奥深いところから人間の愛情を搾り取る能力を持っているようだ。
庭に入って来た、入らない、
しっこした、しない、
泥ボーした、しない、
悪さした、してない、
猫をめぐって争っているのは、いつも、
人間である。
猫たちは人間を互いに争わせるのだ。
動物愛護、地域猫活動なども、実は、そのかげには、多くの猫神たちがいるように思える。
さらに不思議なのは
猫たちに操られて、戦って、涙して、笑って、満足している
僕ら人間のありようである。
石屋まーく 拝